今の仲村さんに関する仮説2つ
『惡の華』第52話・53話で再登場した、17歳の仲村さん。意外な変わりように私の中では全米が涙して話題騒然です。前回のエントリでも書きましたが、今の仲村さんがどういう心境なのか考えてみたいと思います。
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前提
仲村さんは第53話で春日くん常磐さんに話したように「(どんな風に生きてきたのかなんて)どーでもいい」と言っています。何がどうだから「どーでもいい」のかを考えることが、今の仲村さんの心境を理解するのに役立ちそうです。
仮説1:向こう側にたどり着いたので「どーでもいい」
この仮説については当ブログ第53話の感想で書きました。
桐生と外川、山と海
見渡す限りの水平線、東の海から昇る太陽は西の海に沈む。
この土地が桐生と決定的に違うのは、取り囲むものがそれぞれ山と海であること、山は向こう側を遮断して見えなくしているのに対し、海は向こう側が果てし無く広がるのが見えることです。
仲村さんには、ここから出せと叫び続けた自我を取り囲む、自分で作ってしまった壁がありました。桐生を取り囲む山はそれを象徴するものとして描かれており、つまり山々はコンプレックスや鬱屈してねじ曲がった自意識そのものです。それが高くそびえることで向こう側を見えないものにしていました。
それがこの外川には無い。仲村さんは遂に向こう側に到達したのです。同じ太陽が昇り沈む、同じ毎日同じ営みの繰り返しの中で、次第に仲村さんは山から解放されたのだと私は思います。
向こう側は確かに、何も無いと言っていい。ひたすら海が続いているだけ。でも、真っ暗なドロドロが死ぬほどぐちゃぐちゃなんてしていない。遮るもののないキレイな空がそこにはあったのです。
桐生での出来事や外川でどう生きてきたのかなんて仲村さんには「どーでもいい」というのは正直な感想だと思います。
別冊マガジン2014年2月号『惡の華/押見修造』第53話の感想 - I think so./I feel so.〜takashi_itoの読書感想文〜「どーでもいい」の真意
仲村さんとしては、あの時あの夕焼けはキレイだったけど、今見るこの夕焼けもキレイだし、ぐるぐる回り続ける営みの中での出来事なんて小さなことで、だから「どーでもいい」し、もう春日くんのことも自分のことも桐生のことも赦しているのだと思います。
ということで、仮説1は
- 向こう側にたどり着いたので「どーでもいい」
となります。
仮説2:「これからの人生全部捨てた」のだから「どーでもいい」
夏祭り前夜、裸の春日くんに抱きすくめられ、仲村さんはこう言います。
春日くん…
明日捨てようか
これからの人生全部引用:コミックス第6巻P.156
作中屈指の泣けるシーンですが、仲村さんにしてみれば、自殺に成功しようがしまいが、櫓の上でこれからの人生全部捨ててしまったので、今現在も続いているそこから先の人生は「どーでもいい」ということになります。要するに今生きているのはボーナストラックみたいなもので、仮説2は
- 「これからの人生全部捨てた」ので「どーでもいい」
となります。
まとめ
他にもあるかもしれませんが、今のところ私が思いついたのはこの二つの仮説です。
仮説1の方がやはりハッピーな仮説ですので、こっちだといいなと思います。
仮説2の方は、そんな人生捨てた奴が風景見て「キレイ」なんて言うか?という疑問が浮上します。ただ私は、仮説2の方が中学生編の仲村さんのイメージに合致するとも思うのです。
仮説1だといいなあという方面から書いた『惡の華』第53話の感想(別冊マガジン2014年2月号『惡の華/押見修造』第53話の感想 - I think so./I feel so.〜takashi_itoの読書感想文〜)ですが、考え方はもうひとつあるぞ、ということで。