I think so./I feel so.

漫画や映画など読んだもの・見たもの・聞いたもの・使ってみたものや普段の生活に関する感想文です。内容は一個人である私の思いつきに過ぎません。

『惡の華/押見修造』に関する雑感

惡の華読んでて思ったことのメモ的なもの

なのでそんなに深く考えたものではないです。思いつきばっかりです。

惡の華7巻14P・15P・23Pの絵柄について

楳図かずお。目といい、口といい。あくまで私の印象の中の楳図かずお、ですが。楳図絵の特徴にうまいことはまってるように思いました。
自分的に最高の楳図かずおは、『14歳』の中のセリフ「きよら、さよなら」。スピリッツで連載中に読んだきりなので、ストーリーのどの辺かもわからないのですが、韻を踏んでるこのコマが妙に印象深いです。
このコマの絵も、櫓の上での春日くん仲村さんみたいだった気がします。

14歳 volume.1 (ビッグコミックススペシャル)

14歳 volume.1 (ビッグコミックススペシャル)


「かけて」ドプッドプッドプッ

同じく7巻10P・11Pから。「バカって言う奴がバカ」理論でいえば、この言葉とこの擬音でエロいって思った私がエロいんでしょうね。うへへ。エロくないですか?

惡の華(7) (講談社コミックス)

惡の華(7) (講談社コミックス)


第34話(コミックス7巻47P・48P)の『漂泊者の歌/萩原朔太郎』について

『漂泊者の歌』は萩原朔太郎の詩集『氷島』の最初に収められている詩です。

氷島

氷島

1933年6月刊行のこの詩集は、萩原朔太郎が家族を伴い、萩原朔太郎が憧れてやまなかった都会・東京に出て来て、頻繁な転居を繰り返しながら妻と別れて帰郷し、また上京するなかで書かれたものです。この詩集の自序にあるように、萩原朔太郎は自らの来し方を「侘しい氷山の生活」とし、行く末を「宿るべき家郷を持たない」「永遠の漂泊者」と捉えており、故郷を思いながらもそこへは戻れない、都会を寂しく漂う、寄る辺のない自身の悲しみを描いた詩集です。
『漂泊者の歌』はこの詩集のリードトラックともいうべき詩で、中学生編から3年後、春日くんがどのような状況に置かれているのかを示す道具として用いられています。
春日くんが故郷である桐生からどのようなことを為した上で追い出され、結果として帰る場所を失ったのか、そして今はどうなのかを表すには、これ以上ない詩だと思います。


猛獣となるか、人として踏みとどまるか

第43話(コミックス9巻4P・5P)の『山月記中島敦』も『漂泊者の歌』と同じく、春日くんの心境を表すものとして使われています。
これは二つの意味があると私は思います。
一つは、春日くんの過去の心境を表す意味。もう一つは現在の春日くんの心境を表す意味。
山月記』では臆病な自尊心と尊大な羞恥心によって李徴は虎になってしまいますが、春日くんもその自尊心・羞恥心のため家族や友人を苦しめ、桐生から放逐されます。ここでの自尊心は、自分は特別だという思い込みで、尊大な羞恥心は、仲村さんと一体化したかのように勘違いした、傲慢とも言える中学2年夏の春日くんの思い込みです。
そして仲村さんに突き飛ばされた原因が自分にあることを知りながらそれを正視し認めることができず、周りを取り巻く世界との接点を自ら閉ざしている、『山月記』で言えば虎になっているのが現在・高校2年クリスマス前の春日くんです。
虎になった李徴は、正気に戻れる時間は次第に失われていることを知っていますが、自らの心持ちのせいで虎となった悲しみを誰かに訴えたいとも考えています。月に向かって吠えても周りは恐れるばかりです。そんな中で李徴はかつての同僚・袁傪に出会いますが、大宮に現れた佐伯さんが春日くんにとっての袁傪のようです。袁傪は何も言わずに李徴の話を聞いてくれますが、佐伯さんは随分とえぐいのですけれど。
李徴が袁傪と出会うことでその思いを見事な詩として言語化できたのと同じように、佐伯さんがきっかけとなって春日くんは正面から自分と向き合うことができるようになります。その結果、春日くんは猛獣とならずに済んだのです。


いろんな月が描かれますね。ぱつんぱつんの満月。これからの人生、明日捨てることを決めた仲村さんと春日くんを照らす月。常磐さんと春日くんが別々の場所から見上げる月。その二人がキスするところを見下ろす月。それぞれ全部表情の違う月です。
満ちて、欠ける。また満ちては欠ける。周期やサイクル、成長、前進と後退、生と死を暗示するにはもってこいの素材です。

惡の華(2) (講談社コミックス)

惡の華(2) (講談社コミックス)