I think so./I feel so.

漫画や映画など読んだもの・見たもの・聞いたもの・使ってみたものや普段の生活に関する感想文です。内容は一個人である私の思いつきに過ぎません。

コミックス『志乃ちゃんは自分の名前が言えない/押見修造』の感想※ネタバレ注意

押見修造、現時点での最高傑作!

完結している押見修造作品としては、私はこの『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』が最高傑作だと思います。
誰もが否応無く自分と向き合わされる思春期、ありのままの自分を受け入れるというのはどういうことなのか。すっきりとした読後感と共に深い感動を味わえる、誰もが身につまされるテーマを見事に描いた作品です。


コミックス『志乃ちゃんは自分の名前が言えない/押見修造』のあらすじ

※ネタバレ注意
大島志乃は高校の新入生。クラスでの自己紹介で、緊張のあまり最初の一言が発音できず、取り繕うとすればするほど上滑りしてしまい、笑い者になってしまう。

周りに溶け込めない志乃は校舎の裏で一人弁当を食べていると、歌の練習をしにきた同じクラスの加代と出会う。加代に迷惑をかけたことを詫びたいが、その言葉すら言えない志乃。喋れないなら紙に書けばいいと、加代は志乃にペンと紙を渡す。面白いことを書いたら紙とペンはあげると言われ、志乃が紙に書いた言葉は

おちんちん

これをきっかけに二人は仲良くなっていく。

加代の音痴を志乃が思わず笑ってしまい、一時疎遠になるが、秋の文化祭出演を目標に加代がギター、志乃が歌うユニット「しのかよ」を結成する。駅前での初演奏で志乃は美声を披露するが同じクラスでかつて自分をバカにした男子・菊地に見られてしまい、志乃は加代を置き去りにして逃げ帰ってしまう。

その菊地が強引にユニット入りしてしまい、やがて志乃は歌う時も言葉が上手く出せなくなってしまう。加代の部屋を志乃は飛び出す。

しのかよ もうやめる
ずっとひとりならよかった
ともだちになんかならなきゃよかった

と地面に書き記し、加代の制止を振り切って志乃は走り去る。

夏休みに入り、街に出た志乃は菊地に出会う。志乃は逃げようとするが、話をしようと強引に引きとめられる。一緒に加代のところに行こうと言われるが頑なに拒否する志乃。菊地は、自分が周りが見えなくなりなりがちであることと、以前志乃をバカにしたことを詫びる。その上で、志乃ともっと話がしたくてユニットに入ろうとしたことを打ち明け、志乃に好意を伝えようとする。志乃は何かを言おうとするが言葉が出ず、立ち上がって「うるさい」と言って去る。

文化祭当日、「しのかよ」でエントリーしながら一人で体育館のステージに立つ加代。音痴を笑われながら一生懸命にギターを弾き、歌う。

魔法はいらない
魔法はいらない
みんなと同じに喋れる魔法
みんなと同じに歌える魔法

爆笑の中、ステージから去ろうとする加代。その時、客席が後方で起きていることにざわつき始める。
聴衆の視線の先では志乃がもがきながら何かを必死で喋ろうとしていた。言葉がほとばしる。

私はッ
自分の名前が言えないッ

くやしいくやしいくやしいッ‼︎
どうして私だけ⁉︎
どうしてッ‼︎
不公平だよ‼︎!
喋れさえすれば…
喋れさえすれば私だって…

身振り手振りを交えて声を上げる志乃。

バカにしないで…
笑わないで…
こわい…

加代もステージから志乃を見つめる。

だから逃げた

涙がぽろぽろこぼれ落ちる。

でも
追いかけてくる
私が追いかけてくる
私をバカにしてるのは
私を笑っているのは
私を恥ずかしいと思ってるのは
全部私だから

私は…
私…は…
おっ
おっ


おっ
おっ
…大島志乃だ
これからも…
これがずっと私なんだ

菊地はもらい泣きしてる。加代は微笑んでいる。

一人の女性が予約の電話をしている。電話の向こうから名前を要求されると、女性はなかなか名前を言うことができない。すると女の子が電話口に向かって

たけみや・しのです!

と言い、無事予約が受け付けられる。
女の子にありがとうと女性が言う。女の子は、ママが言えない時はわたしが言うからね、と答える。
二人のいる部屋には志乃・加代・菊地、三人が一緒に写った卒業式の写真が飾られている。


志乃、最初の最初でつまずく

母音で始まる言葉が出にくい志乃は、高校生活のスタートであるクラスの自己紹介に大変な緊張をもって臨みます。しかし「大島志乃」と言えないまま、結局笑い者になってしまいます。
担任教師の小川は志乃を心配していますが、悪気なく言った「名前くらい言えるようになろう、がんばって!」が志乃を傷つけます。小川の一言は志乃に「自分は頑張らないと名前も言えないと担任に思われている」と感じさせ、自尊心が傷ついたのです。
それでも「もっと積極的に」という言葉を受け止め、生かそうとするあたりに志乃の素直さが伺えます。
しかし志乃の自尊心が傷つく出来事はこの後立て続けに起こります。菊地に身振り付きで真似され、加代に舌打ちされ、結果として志乃は孤立していきます。
自己紹介のシーンでは、フキダシの演出で志乃の緊張が高まる様子が、読者にもわかりやすく表現されています。しかし言葉が出にくい時の大袈裟とも思える身振り手振りは漫画的な誇張があるわけではなく、吃音症に伴う随伴運動と言われるものです。
wikipedia:吃音症


心地良い居場所を失う

志乃と加代は一人では解決し難いコンプレックスを抱えていましたが、友達になることでコンプレックス解消の道筋=希望が見えてきます。加代の音痴は志乃が代わりに歌う。居場所のなかった志乃は加代に求められることでそれを得ます。
しかし他人の顔色を伺うことに慣れすぎて、他人の気持ちを勝手に先回りしてしまう志乃は、加代が楽しそうに菊地と話していると疎外感を感じるようになります。
かつて自分を傷つけた菊地が居場所にズケズケと入り込み、加代も満更でもなさそうとなると、志乃はどんどん苦しくなり、歌うこともできなくなります。


ともだちになんかならなきゃよかった

認められ、求められ、歌うことでようやく自己表現の喜びを知ったのもつかの間、絶望を味わう志乃。喜びを知ってしまったがために気づく奈落の深さが「ともだちになんかならなきゃよかった」というセリフに集約されています。


悪気がないことの罪、掛け違うボタン

閉じてしまう志乃は家にも居辛くなり、当てもなく外出した先で菊地に会ってしまいます。
所謂アスペっぽさのある菊地は、周りの空気や相手の気持ちを慮ることが苦手な少年です。良く言えば純真。全く悪気なくやったことで誰かを傷つけてしまったことが過去にもあるらしく、後からそれに気付くものの、瞬間的には気付けません。
志乃への告白も、志乃からしてみれば全く意味が分かりません。菊地は自分をバカにして傷つけに来て居場所を奪う怖い人にしか見えません。それなのにもっと話をしたかったとか、勝手なことを言わないで!そんな気持ちに言葉はついて来ず、絞り出すように口にしたのは「うるさい」でした。


ありのままの自分を受け入れる

加代は目標にしていた文化祭のステージに一人で立ち、自分で作詞作曲し演奏して歌います。自分が曲を作り、演奏し、志乃の作った詞を志乃が歌うという本来望んでいた形とは異なりますが、それが叶わなかったからこそ、加代はコンプレックスを乗り越え、どんなに笑われても自分そのものを出し切りました。
その姿を目の当たりにし、志乃も自分のありのままを受け入れます。
音痴も自分の名前が言えないのも空気が読めないのも、本人にしてみれば不条理極まりない。みんなができることが自分だけできない悔しさ、不公平。周りが勝手に取ってつけたように緊張だとか解釈してくれるが、そんなものは関係がない。それさえできれば自分だって誰かに傷つけられたりしないのに、傷つくのが怖いから逃げる。逃げれば逃げるほど陥る悪循環。しかし自分が逃げているのは自分を傷つけようとする誰かではなく、自尊心が傷つくことを恐れてありのままを受け入れられない自分、そんな自分そのものから逃げていると気付いた時、志乃もコンプレックスから解き放たれます。
自分だけ言葉が出にくいのは不条理で不公平。でも、これまでもこれからも、そんな私が大島志乃なんだ。これまで得られなかったそんな自己肯定感を志乃は手に入れたのです。


普遍性のある物語

作者・押見はあとがきで

  • 自分も吃音であった
  • 作中で吃音やどもりという言葉をあえて使わなかった
  • その言葉を使えば、作品が吃音漫画になってしまう
  • 個人的でありながら誰にでもあてはまる物語になればと思った

と書いています。
これはどういうことかというと、志乃を吃音とラベリングすることで、この作品が吃音症の人や障害を持つ人特有の悩みを描く漫画になってしまい、下手すれば吃音あるある障害あるあるのようになることを避けたかったのだと私は思います。
言葉の出にくい子だけではなく空気の読めない子や音痴の子も合わせて描き、少年少女がそれぞれに抱えるコンプレックスは全く個人的でそれぞれ別個のものであっても、それとどう向き合うか、または向き合ったかということは普遍的な物語になり得るんじゃないかという押見の試みは大成功を収めたと思います。


ユウタイノヴァから続く思春期シリーズ

押見の作品はユウタイノヴァ以降、思春期とどう折り合いをつけるか、くぐり抜けるかということが繰り返し描かれています。
中年に差し掛かろうかというところまで引きずったユウタイノヴァ・柏木とネットカフェ・土岐、大学生でまだ抜けてないぼく麻理・小森、高2で抜け掛かりの惡の華・春日、高1で答えを見つけたこの作品の志乃。グズグズ引きずる男性キャラに比べて志乃の早熟っぷりw
男性キャラだと作者の同性としての実体験が色濃く反映するのでしょうか。押見自身が「くぐり抜けたのは子供が生まれた時」と言っている以上、遅くなる傾向があるのかなと思います。